大人になったら、好きがわからなくなった

アンパンマンとかセーラームーンとかウサギとかネコとか、小さい頃は、みんなが好きなものが好きだと思えていた。大人になってみたら、みんなが好きじゃないものを好きだと言うようになった。どちらも本当にそれが好きなのかと聞かれたら全く自信はない。

 

小さい頃、私はいつでも主人公が好きで、だけどいつでも、アンパンマンよりバイキンマンが好きだと思える子に憧れていたし、月野うさぎと同じ髪型をしながら、「パラパラが可愛い」と小さなキャラクターを見つけられる感性に嫉妬していた。それは、「みんなと一緒」であることの安心感が、私に好きという幻を見させていたのかもしれないし、ただ単純に私は主人公にちゃんと目を向けられて憧れられる、大人にとって扱いやすい平均的な感性を持っていただけなのかもしれない。

 

どこにでもいる子になりたくない子ってどこにでもいるよ。と坂元裕二は言っていた。やっぱり私もどこにでもいる子になりたくないから、大人になって、主人公を好きかもしれない思う気持ちに気づかないふりをして、それが私の個性だと言わんばかりに主人公以外の名前の横に好きという文字を繋げる。センターで踊るアイドルに叶わない小さな一目惚れをしながら、テレビに数秒だけ映る後ろで踊る子の可能性を見つけて、ホッとしている。

 

でも、どうやら多分私は、主人公が好きな平均的な感性の持ち主で、月野うさぎ前田敦子平手友梨奈佐藤勝利平野紫耀もやっぱり好きで、いつだって目を向けてしまうのは、立ち位置0で、他のみんなに背中を見せているその子たちなのである。

 

私は鈍間で鈍臭かったから、50m走は本気で走って13秒で、マラソン大会は毎回圧倒的にビリッケツで、ゴールする頃には閉会式終わってるレベルで、そんな私は他人の背中ばかりを見るしかなかった。だから、「背中を見せる」ということに、どうしようもないくらい不安と憧れがあって、それができる人に、それをするしかない人に、尊敬と心配ばかりが積もっていく。だけど、同時に「背中を見るしかない」後ろの人たちにも、感情移入してしまうから、いつかの背中ばかり見ていた自分を重ねてしまうから、私はいつだって、好きが増えていく。

 

みんな大好きだと言ってしまえば、全てが丸く収まるのだけれど、それでもやっぱり特別を作りたいのが、人間のしょうもないところで、私のしょうもないところだ。特別だと決めた人を特別だと声に出すくせに、他の人に浮気しそうになったり、「みんなと同じは嫌だ」とか思ったりして、好きがどんどんわからなくなる。特別はやっぱり私だけの特別であって欲しいという束縛力が妄想力へと進化し、毎日よくわからない非日常な世界へ迷い込んでは出口がわからずに、いつでもお花畑にいるかのように口角ばかりが上がっている。なのに特別は本当に特別なのかもわからない。

 

私はいつだって、自分にも恋する気持ちにも自信がない。

いつか当たり前にすると思っていた恋は、全然当たり前になんかやってこないと知る。

 

 

ほんとしょーもない(言いたいだけ)

まだまだだな私。